忘れないように、ここに書いておくけど
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長野県木祖村で活動を始めた坂口佳奈と東京で活動をする二木詩織の二人で澤頭修司先生著書『御嶽の見える村ー木曽開田高原日記ー』をテーマに作品を制作します。春夏秋冬で分かれる「秋」章のを取り上げ日記に登場する土地へ坂口が訪ね木曽で過ごす日々を記録していきました。二木はリモートで制作に参加。取材内容を共有し「御嶽の見える村」の過去と現在について考えます。この本は澤頭先生が昭和四十四年四月から四十九年の五年間開田村末川にある東小学校に勤務されていた当時の日記が記されています。そして現在、特に今年は大きな変化が私たちの生活に訪れています。澤頭先生が過去の村の環境や行事を知り時代の移り変わりを記録したように私たちも変化を受け止める姿勢と模索する新しい生活スタイルの手がかりを記録していきます。
秋
お盆が過ぎると、高原にはもう秋風が吹く。
刈り干しが始まるのは、毎年このころである。
刈り干しが始まって、二、三日すると、はちまきの急斜面には見事な横縞模様がみられ
る。今年はそれが九月十日だった(昭和四十八年)
はちまきーて、 はちまきっていうのはね、地蔵峠のある山で、 ちょうど住宅からね こう、山のあたまにはちまきのように道がね、 ずーっと見えるんですよ そうすると、ああ、バス降りてきたなとか わかるんですよ
これは、はちまきに限ったことではない。把ノ沢の中学校の裏山も、柳又の西野川に面 した斜面も、とにかくあちらこちらにあるカッパ一帯にみられる風景である。
カッパーて、 カッパっていうのは草っぱら、草の原 あ、そういう意味なんだ うん くさ、パラ? うん、くさぱら、草っぱらって言うね
八月二十九日(土)晴れ(昭和四十五年)
朝早く耕作機の音がする。若い主婦がダンボールに詰めた白菜を積んで、農協の食庫に
運び込んでいる。声をかけられたので、誰かと思ったら鵜類沢の登里さんの奥さんであっ た。
午後、家族と西野へソバの花を見に行く。
西野の山下家(馬地主)を外から見て、下ノ原から菅沢へ出て、床並から木曽温泉まで
行った。ソバの花盛りで眺めはよかった。御嶽は雲に隠れていたが、下ノ原から柳又開拓
の辺りには、真っ白いソバ畑が白毛布を被せたように、あちこちに見られた。
家内が「白ばっかで面白くないね」と贅沢なことを言った。
十月九日(金)雨(令和二年)
彼女がびしょ濡れでこちらに走ってきて車に乗り込むと、今日何をしていたかの話をす る。
「久しぶりにホワイトキューブの真っ白な展示室に作品があるのを観たら目が疲れた、 いつも彩度の低いところにいるから」と言っていた。 壁自体が光っているのではと思う くらい真っ白な部屋に作品があるのを想像して、 コントラストの強さに私まで目が痛い気 がしてきた。
木曽はもう寒くてストーブを焚いているみたい。
「最近、庭に作った畑を見てるとふとした時、あ、私が絵見る時と同じ眼で見てるって思 うことがあって。だからね、散歩してるときに畑を見てるおじさんとかを見かけると、あ なたは何を見ているんですか?って気になって話しかけたくなっちゃった」
九月二十一日(月)晴れ(昭和四十七年)
生まれて初めて、自分でみつけたジバチの巣は、穴の大きさからして、かなり大きな巣 で あるように思えた。どうしようか。すぐにひとりで掘るべきか、それとも夕方まで待っ て小林さんにでもきてもらおうか。 躊躇はしたものの「自分でやってみよう」という気 になった。
ころ合いをみて、私は用意しておいた鎌で穴の周りの土を切るようにして、掘り始めた。 小林さんのように素手ではできない。 夢中になってやるのだが、巣は見つからない。見 当はずれの場所を掘っているのだろう か。早い ことやらなければ、ハチは生き返ってし まう。気ばかりあせって、どこを掘っているのかわからないほどである。
私は小林さんがやったように、煙に酔っている成虫を払い落とした。 私の仕事を、窓越 しにみていた家内は、「あの、慌てた格好は見られたものじゃなかった」と言っ たが、私は自分がやったことに満足した。
十月十一日(日)晴れ(令和二年)
オリーブの木が伸び放題で切っているうちに、もうこのオリーブの木はない方がいいので は?とどんどん切っていく。根腐れを起こしていて、ちゃんと見るとシロアリが山ほど出
てきて木を食いまくり、根の内側はもうおがくずのようになっている。シロアリを生で初 めて見た。それをどんどんスコップで掘っていくと、まるで 虫歯の治療をしているように 見えた。 木の根っこ周辺にはダンゴムシや謎の幼虫、いろんな虫が住んでいた。ずっとそ こを巣にして住んでいたのだろう。虫からしたら急に住処を奪われて天災のようだろう なぁと思う。 今日こんなにここの木を切るなんて思ってもみなかった、洗濯を干していた だけなのにどんどん汚れが気になり手を伸ばしこういうことになってしまった。だから本 当に天災と同じようなものだ。
私が大事に育てている植物と、今ぞんざいに切られている木の違いはなんなのだろうと思 う。 自分の植物はちゃんと葉が生えてくるか心配で毎日見てしまうのに、この木の葉は 心配などしなくても勝手にどんどん、必ず生えてくるのだろうという確信がある。 母は近 所の人にもらったという南天を、いらないのにもらってしまったからどうでも良いと言っ ていた。 オリーブの木がなくなりきれいになった一角を見て、つい「目に優しい」とこ ぼしてしまった。
十月五日(月)晴れ(令和二年)
開田高原郷土館へ行く。最後の木曽馬を見に行ったら展示ケースは空っぽで、どうやら出 張展示へ出てしまっているようだった 。
展示物の中に口カゴというものがあった。口カゴは馬の口が開かないように付ける馬具だ 作物を食べたり人に噛みつくのを防ぐための道具。馬に括り付けるためのヒモが壁に引っ掛けてあり、壁から垂れるように展示されていた。私にはそれが食物やなにかを 入れるワラの入れ物のようにみえて、そんな風に使えたらと思う。
車を走らせていた。遠くでススキの中を歩いている人が目の端に映って近くの駐車場に車 を停めた。風車と畑のあるここは、向こう側にポツポツ民家がある。その細い道に束になった白い芒(のぎ)が風に揺れている。ススキはまるで小さな火花のようで、バチ と音が 聞こえる気がした。 時刻は夕方になっていて、手の先から冷えた空気を感じる。身を縮めるように歩くと、柴 犬を連れた男性とすれ違う。 「寒いでしょ?」と声をかけられて、私は歯を鳴らしながら笑顔を作る。急に気温が下 がって凍えてしまいそうだった。 若い柴犬は口角を上げて短く息を吐き、震える私を見つめている。
十一月十一日(土)晴れ(昭和四十七年)
午後、家族を連れて西野峠に登る。私は村の石造物調査をしているので、それを兼ねて の峠行きであるから、私の仕事に家族を付き合わせたようなものである。
把ノ沢の農協に車を停めて、その右手から旧道に入った。今は車道が役場前から左折し て、峠山の南麓を迂回するように拓かれているが、それ以前は、この峠道が西野と末川を 結ぶ主要道であった。いわゆる「飛騨街道西野通り高山道」がこれである。旧道は畑に 沿って、ゆるやかな登りであった。
峠の登りにさしかかると、人の気配はまったく感じられない。道はカラマツの落ち葉で埋 まっている。まるで赤い絨毯を敷きつめたようだ。 私と一緒に歩いていた長女が、その落ち葉の上に持っていた棒で「先いくよ」と大きな 文字を書いた。少し遅れて登ってくる家内と次女への伝言である。
やがて道はつづら折りの登りとなる。途中、老いた赤松の根元に石を並べて作ったヤスンバがある。昔、福島の町から生活物資の運搬を業とする持ち子が、荷物を背負ったまま休めるようにした場所である。開田言葉でいうヤスンバは休み場のことである。 ここには、巡礼供養塔と二体の観音様が建っていた。観音様の大きいほうは、明治二十七年のもので「南無子育観世音菩薩」と「南無朝□観世音菩薩」と併刻して、その上部に10 センチほどの童子像が浮き彫りにされている。左側面に、「願主大上下田善助」とある。 小さいほうは、明治三十一年のもので、子安と刻んだ文字の下にやはり童子像が浮き彫り にされており、台座には善助観音と刻んである。 大上は、把の沢にある小字名である。おそらくそこに下田善助という、大変子煩悩な人 が住んでいて、天逝した愛児の供養のために建立したものだろう。私も子を持つ親とし て、この観音様に手を合わせずにはいられなかった。 ヤスンバの脇には、小沢が流れていた。長女は、その水を両手で掬って飲んで「ツメ ターイ」と言った。
風が冷たい。もう冬はそこまできている。二人の娘を古株の上に座らせて、記念写真を 撮った。
そうして、今、登ってきた道を引き返した。